「ああ……」
そして感嘆とも取れるため息をつき、男は朔の頬に手を添える。
朔は戸惑いつつも、とりあえずそのままでいた。
「戻って来てくれたんだね……」
そう言って優しく微笑んだ彼は尚更玉兎に似ていて、やはり華と玉兎の父親だと朔は思った。
だが、男の口から続けて出た言葉に今度は朔が驚き目を見開く。
「――
「え?」
それは、朔にとって聞き覚えのある名だった。
とても身近で、懐かしい名前。
何故、彼が自分を見てその名を呼ぶのか。
聞こうとする前に、もう片方の手で腕を掴まれる。
腕を掴んだ力はとても強く、ギリギリと締め付けた。
「っ、い、痛いです。離して――」
「今度は逃がさないよ、望。二人の子を、強い力を持つ子を作ろう」
朔の言葉など欠片も聞いていない様子で男は囁く。まるで睦言を口にするように甘く……。
だが、朔の腕を掴んだ手は逃がさないという言葉の通り振りほどけないほど強い力で握られていた。
骨が折れてしまうのではないかと言うほどの力に、朔は思わず涙目になる。
「い、痛いっ!」
叫んでも、男は優しく微笑むだけ。腕を掴む力は変わらず、その表情が逆に奇妙なものに映る。
優しく微笑んでいるのに……優しい声で語りかけてくるのに、その言葉と手の力は全く逆のもの。
これはもう、狂気に近かった。
それを確信すると、途端にその優しい表情が怖くなる。
表面上は優しいからこそ、その奥に存在する闇が一層恐ろしい。
「い、いや……。離して」
自分でも声が震えているのが分かったが、言わずにはいられなかった。
この恐ろしい人物から、一刻も早く離れたかった。
だが、そう口にしたところで男が腕を離してくれるわけが無い。
それどころか、その力のまま腕を引かれた。
「あっ」
腰に手を当て抱き締められてしまう。
更に近くで見た男の目の中に、朔は確かに狂気を見た。
「さあ、今度こそ私の妻に。逃げないよう閉じ込めて、私の子だけを産んでくれ」
恐怖に身が震えた。
男がこれから自分にしようとしていることを感じ取ったから。
二週間前、突然襲ってきた火鬼を思い出す。目の前の狂気に支配された男は、あいつと同じことをしようとしている。
男自身も恐ろしかったが、その瞬間は“男”という存在そのものの恐怖が勝った。
「嫌っ! 離して!!」
掴まれている腕の痛みも忘れて朔は暴れる。
何としても、この男から逃げなければならない。
「望、暴れるんじゃない」
でも男は困ったように
事実、暴れても男の腕の中からは逃げられなかった。出来たのは男を少し困らせることだけ。
それでも朔は諦める訳には行かなくて、尚も暴れて叫んだ。
「嫌! 絶対嫌!」
「こら、これ以上私を困らせるんじゃ――」
「――何をしているんですか?」
そのとき、突然第三者の声が廊下に響いた。
静かな、それでいてしっかりとした口調の男の声。
(この、声は……)
背後から聞こえた声に、朔はホッとして暴れるのを止めた。
そしてゆっくり振り向くと、そこには声の主・玉兎と月人がいた。