「朔さん、父が申し訳ないことをしたね」
「……いいえ……」
気にしていないではないが、そう答えることしか出来なかった。
そしてそのまま何も言えず黙っていると、玉兎は衝撃的なことを口にした。
「父は、二十年前に妻になるはずだった強い力を持つ女鬼を失ってから、徐々にあんな風になってしまったんだ。そして、胡桃色の髪と茶色の目を持つ女の子に異常な反応を示すようになった。君や……華の様な、ね」
「……え?」
最後に慎重に言った言葉が耳に残った。
(私と……華のような……?)
朔自身は先程玉兎達の父の狂気を目の当たりにした。
自分を見ていながら、自分に触れていながら、あの人は別の人を求めていた。
そしてその幻を見たまま、ことに及ぼうとしたのだ。
朔は先程の恐怖を思い出し、カップを持っていない方の腕で自分の体を抱きしめる。
玉兎の言うとおり、あの人は胡桃色の髪と茶色の目を持つ自分に異常な反応を示した。
だから、ここで朔を例に出すのは分かる。
だが、あえて華の名前を出したのは……。
嫌な予感がして、眉を寄せて玉兎を見た。
彼はいつもの優しそうな笑みを崩し、辛く悲しい表情で言葉を続ける。
「去年の春……華が十五歳になった頃かな。さっきと同じ様な事件があった」
「っ!」
嫌な予感が的中した気がする。
それでも信じたくなくて、まさかと頭の中で否定した。
なのに、玉兎は無情にも口にしてしまう。それが何を意味することなのかを。
「気が触れた父が、華の部屋に侵入してあの子を抱こうとしたんだ」
「――っ」
あまりの衝撃に、持っていたカップを落としそうになった。
代わりにそのカップをギュッと掴む。
そうしてカップは落とさずに済んだが、腕がカタカタと震えていた。
(華を抱こうとした……)
その事実も、その言葉そのものさえも頭の中から振り払いたいというのに、朔の思考はその言葉を繰り返すのを止めてくれない。
(実の親子……でしょう?)
信じられなかった。……いや、信じたくなかった。
だが、さっき目にした華の父親なら『絶対にあり得ない』とは言えそうにない。
信じるしか、なかった……。
「もちろんすぐに気付いて父を止めたけれどね……。その記憶がトラウマになってるんだろう。華はその日以来父に会おうとしない」
昼間、父親の話をするとき華は渋い顔をしていた。
それはもちろん朔を気が触れた父に会わせたくないという思いもあったのだろうが、自分が会いたくないという思いも込められていたのだろう。
知らなかったこととはいえ、自分はなんて酷いことを提案したんだろう。
過ぎたことなので仕方ないが、あのときの華の気持ちを考えると胸が苦しくなった。
「だから、さ。華にはさっきのこと言わないでいて欲しいんだ」
見るからに落ち込む朔に、玉兎はそう頼みごとをして来る。
「華は君のことを本当に大切に思ってる。……あまり心配掛けたくはないんだ」
玉兎は申し訳なさそうに言ったが、朔にとってもその気持ちは同じだった。
「はい、分かりました。……私も華に心配掛けたくないですから」
そして、小さく頬笑みを玉兎に向けた。妹思いの玉兎の言葉が嬉しかったから。
「有難う。朔さん」
その感謝の言葉と微笑みに少し照れる。
朔は照れ隠しに残っていたミルクを口に運んだ。ぬるくなっていたので一気に飲み干す。
そうして一息つくと、玉兎が有無を言わさずカップを奪い取り、また朔に背を向けて今度は洗いものを始めた。
申し訳なくて謝ったが、「いいよいいいよ」と苦笑気味に言われるだけだった。
なので朔は大人しく玉兎の背中を見つめていた。
洗いものが終わり、カップを棚に戻すと玉兎は背を向けたままぽつりと呟くように何かを言う。
「……み」
「え……?」
よく聞き取れなくて聞き返す。
玉兎は振り返り、一つの質問を口にした。
「朔さん。君は『望』という名を知っているかい?」
「っ――」
先程彼の父も口にしていた名前。
朔にとって、最も近しく懐かしい名前。
「さっき父も君を見てそう言っていたね。望というのは、さっき話した父の妻になるはずだった人の名前だ」
やはり、と思う。
玉兎の父が自分を見てその名を呼んだときから、それはなんとなく分かっていたことだった。
「これは僕の憶測だけれど……」
静かにそう切り出した玉兎の言葉に、その憶測が何なのか朔は聞かなくても気付いていた。
そしてその憶測は外れていないだろうということも……。
先程彼の父が自分を見て口にしたということ。そして、昼間の華の話。
照らし合わせるとそれしか思いつかない。
「望とは、君の母親の名前じゃないかな? 父の妻になるはずだった人と君の母親は同一人物だ」
憶測だなどと言いながらも、その言葉は確信を持っているかの様だった。
実際確信があったのだろう。
朔自身、玉兎の憶測は外れてはいないと思うから……。
「……」
だが、朔は“はい”とも“いいえ”とも答えられなかった。
認めたくないような、受け入れたくないような、何とも言えない感情が心にわだかまっていた。