「……?」
どういうことなのか。
“桃太郎”という存在がどうやって決められているのか分からないため、何とも言えない。
でも、この男の子供ということはまだ生まれてすらいないはずだ。なのに決まっていることのように言うなど……。
あからさまに訳が分からないといった表情になる。
だが、男にとって朔の反応はどうでもいいことだったらしい。
「で? 俺は名乗ったぜ? お前の名は?」
愉悦するような言い方と表情。
“桃太郎”の話など出してくるのだから朔のことは確信があるのだろう。だが、それでもあえて聞いてくるところが性格の悪さを感じさせた。
名乗っても名乗らなくても変わりないだろう。この男・涼が“桃太郎”側の人間だとはっきりした以上朔にとって敵である事は明白だ。
(どうするべき……?)
胸倉を掴まれたまま、朔は必死に考えた。
自分は朔だと答えれば今ここで殺されてしまうかもしれない。
では違うと言い張ればいいのだろうか?
……いや、それはそれで怒りを買うだけにしかならない気がする。
そんな風に迷っていると、一度緩んでいた男の手の力がまた強くなる。少しずつ、じわじわと
「うっ……くぅ……」
「ほら、答えろよ。お前の名前は朔か?」
苦しくて歪む朔の顔を覗き込みながら、涼は笑う。
(この人、楽しんでる……)
その様子が、また月人と戦っていた時の里桃の姿に重なった。
だが、少し違う。
このときの涼の目はあの時の里桃には無い狂気が見える。
それは昨夜見たばかりの華の父親の目にどこか似ていて、朔は嫌悪と恐怖を同時に感じた。
(逃げ、なきゃ……)
理性と本能両方でそう感じた。
どうしたってこのままでは悪いようにしかならない。
逃げることでしか助かる術は無いと確信した。
(でも、どうやって?)
胸倉を掴んでいる手はとても朔の力で振り払えるようなものではない。
無理に逃げようとしてもすぐに引き戻されてしまうだろう。
何か方法を。そう考え一つだけ思い当たった。
成功したことは無い。だが、毎日練習していたのだ。
出来るかは分からないが、やってみてもいいかもしれない。
朔はそう決めるとすぐに意識を自分の内に集中する。
息苦しかったが、逆にそのおかげで雑念が湧くのを抑えられた。
すぐに自分の中の力を感じ取る。いつも靄の様なものに包まれていた力がそのときは少し晴れていたように感じた。
だが、それを疑問に思っている余裕は無い。
朔はすぐに掴まれている胸の辺りを中心に結界を思い浮かべた。完全な結界を張れなくても、涼の手が弾かれさえすれば良かったから。
直後、弾かれたように涼の手が外れた。
「なっ!?」
涼は弾かれた手を見つめ、驚いた顔をする。
だが、実際は彼より朔の方が驚いていた。
今まで一度も成功したことが無い。結界の“け”の字すらなかった力の具現化。ほんの少しとはいえ、どうして今は出来たのか。
それは大いに気になることだったが、今は逃げることが先決だった。
このままここに居たらすぐに捕まってしまう。捕まっても、また結界が成功するとは限らない。
今がチャンスだった。
ひと眠りしたおかげで体調も随分良くなっている。ここから逃げて誰かに助けを求めることくらいは出来るはずだ。
朔は涼が驚いている間に彼がいる反対側からベッドを下りた。
出入り口であるドアはどちらかというと涼の方が近い。ほんの少しの差だが、その差で捕まってしまう可能性もある。
朔は迷うことなく窓の方に向かった。全て閉められているが、一つだけ鍵の開いている窓を発見する。
その窓の側にあるベッドに上がれば難なく外に出られるはずだ。
だが、思っていた以上に涼の反応は早かった。
朔は窓に辿り着くことすら出来ず、元のベッドに引き戻される。
そして何がどうなったのか。いつの間にか両腕を頭の上で一纏めにされ、組み敷かれていた。
圧し掛かっている涼が余裕の笑みで朔を見下ろす。
その表情を見て、朔は一つの可能性を見落としていたことに気付いた。
身体能力が人間より高い鬼。その鬼である月人と互角以上に渡り合っていた里桃。
鬼と戦うべき“桃太郎”なのだから渡り合える身体能力を身につけているのは当然だろうと思っていたが、その仲間のことは一切考えていなかった。
少し考えれば分かるはずだったのに。里桃の仲間も、彼と同じ。もしくは彼に近い身体能力を備えていることなど……。