それは、車で屋敷に帰る途中だった。
 夜も深まり、疲れていた男は後部座席に悠々と横になり目を閉じていた。
 緩やかにうねる赤錆色あかさびいろの髪を投げ出し、きっちり着こなしていた着物の襟を崩す。
 もう自分の屋敷に帰るだけなのだからどんな格好であろうと構わないだろう。
 ここにいるのは自分と付き人である男・柏 律かしわ りつしかいない。その律も車を運転しているためこちらを見ることはあまりない。
 例え見たとしても律ならば咎めたりはしないだろう。一族の長を務める自分が、どんなに多忙であるかを知っている人物だ。
 だから、今は周りの目を気にせず気楽な格好をしていた。
 そんな自分に律が前を向いたまま声を掛けてくる。
焔樹えんじゅ様、それほどにお疲れならいっそ以前のように仕事を休んでみては?」
 苦笑交じりの口調に焔樹と呼ばれた男は思わず鼻で笑ってしまう。
(休む、とは……ずいぶんと生ぬるい言い方をしたものだね)
 以前は今のように忙しく走り回ってなどいなかった。それだけでなく、長としての仕事すら怠けていたのだ。
 本当に必要な仕事だけ片付けたら後は自由気ままに過ごす日々。他の多くの仕事は律を含む他の部下達に押し付けていた。
 そんな日常が変容してしまったのはつい数週間前のことだ。
 数週間前、突然現れた気配。――それは強い力を持つ女鬼の気配。
 その気配の所為で一族の男達が奇妙な興奮状態に陥っている。
 女鬼は貴重だ。未だに鬼の血にこだわっている連中にとっては特に捨て置けないのだろう。
 しかも、確かかは分からないがその女鬼は月鬼だという噂もある。
 月鬼の女は自分達の一族の女より更に強い力を扱う上に希少だ。月の女鬼との間に子を作れば強い血が残せるという言い伝えもあるため尚更一族の男達は興奮している。
 自分が一族の主要な人物達の間を走り回って一族を抑え込まねば、今にもその女鬼を攫い奪い合いかねない。
 そんな一族の様子を考えればそうそう休んでなどいられないのは明白だ。この状況では流石に怠け者の自分でも働かざるを得ない。
「冗談を言ってないで早く屋敷に戻ってくれ。今日こそはちゃんと布団で眠りたいからね」
 律に合わせるように苦笑して言う。だが、言っていることは本音だ。
 実際ここ数日布団で眠れた記憶は無い。例え布団に潜り込めたとしてもすぐに起きなければならず、“眠った”というよりただ“横になった”という意識しかない。
 本当に今日こそはゆっくり眠りたい。そう思いウトウトし始めたとき、体を電気が流れる様な衝撃が走った。
 そうして感じたものに、ゾクリと鳥肌が立つ。
「……律、車を停めろ」
「……はい」
 律も感じたのだろう。突然車を停めろと言う焔樹に疑問も抱かずその通りにしていた。
 車が停まると、焔樹は乱れた衣服を直しもせず外に出る。
 山道を走っていたため辺りは街灯も少ない。暗い景色の中、彼はある一点の方向を探るように見つめた。
(これは……)
「焔樹様、これは……」
 同じように車を降りてきた律が少し離れた所から遠慮がちに声を掛けてくる。
 律にも分かったのだろう、この気配の意味するものが……。
「……」
 焔樹はしばらく黙りこみ、考えた。
 これは大変なことになった。これでは、今まで自分がしてきたことが無駄になってしまう。
 月鬼の女を守るため、自分達一族を混乱に陥れないためしてきたことが意味のないものになるのだ。
 何故なら、当の月鬼の女が覚醒してしまった。遠く離れたこの地でも感じる身を震わせるような気配がその証拠。
 そう考えると、焔樹は何故だか物凄く馬鹿らしくなった。
「っは!」
 柄にもなく真面目に仕事をしていた自分を嘲笑する。
 自分は今まで何をしていたのか。月鬼の女を守り、一族を混乱に陥れない方法ならもっと簡単なやり方があったではないか、と。
 焔樹は遠くの気配に惹きつけられるように山間の空を見つめる。星々の煌めく様が、その気配の主のこれからの波乱な人生を予兆しているようでもあった。
 しばらくそうしていたが、不意に彼は踵を返す。着物の裾を軽く翻しながら車へと戻った。
 そしてそんな主の行動よりも早く、律が車に戻り後部座席のドアを開く。その律に焔樹は車に乗り込む前に声を掛けた。
「律、予定変更だ。明日からの仕事は全てキャンセル。今からあの気配の下へ向かう」
「は……?」
 軽く驚きの表情を見せた律だったが、すぐに苦笑じみた笑みを見せ「分かりました」と了解の言葉を告げる。
 呆れているようにも見えたが、どことなく嬉しそうにも見えた。
 車に乗り込むと焔樹はすぐにまた横になる。これからまた長距離を運転する律に少し悪いと思いながらも、ひと眠りすることにした。
 目的の場所に着くころにはきっと明日の昼になっているだろう。布団に入ってゆっくり眠る事は出来ないだろうから、せめて車内で休息を取る。
 車が発進し、僅かに伝わる振動が睡眠を促している。
 眠りに入る直前、車窓から僅かに見える星を見つめて思う。
(この気配の主は……月鬼の女とは、どんな娘だろうね)




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