「朔、おはよう。ちゃんと眠れた?」
 制服に着替え終えた頃、部屋を訪ねてきた華が明るく言った。
 朔は数回瞬きしてから、「あ、うん」と答える。
 いつもの華だった。優しく、自分を気遣ってくれるいつもの華。
 朔の記憶にある最後の華の顔が真逆の妬みに満ちたものだったため、朔はしばらく戸惑っていた。
「嘘」
「え?」
 突然華の表情が変わる。
 真剣な眼差しで華が近寄って来る。顔をのぞき込まれ、朔は少したじろいだ。
 その顔が次の瞬間には嫉妬に満ちた表情になるのではないかと無意識に恐れる。
 だが、華は少しいぶかしむ様な表情をしただけで朔が恐れていたようなことにはならなかった。
 どうやら自分は昨晩の華の表情に思っていた以上ショックを受けていたようだ。
「目の下。ちょっとくまが出来てるわよ? 眠れなかったんじゃない?」
「あ……」
 華は心配してくれていたのだ。
 無意識にとはいえそんな華を恐れていたことに恥じ入ってしまう。
「無理してない? 今日は学校休んだら?」
 尚も心配してくれる華に感謝と申し訳なさを感じながら朔は答えた。
「大丈夫よ。寝れなかったのは……その、どうしたら元に戻れるか分からなかったから……」
 昨晩、玉兎に連れられて部屋に戻ってきて取りあえず安心した。
 色々考えなければならないことはあるような気はしたが、とにかく直面していた危険は去ったのだとこのとき本当に思えたのだ。
 だが、そうして安心してからはたと気付いた。
 電気を消した暗い部屋の中でもほのかに光る銀色の髪。
 明らかな異形の証である額の角。
 そして鏡に映る二つの月色の瞳。
 この変転した姿は、どうすれば元に戻れるのか――。
 戻り方など誰も教えてはくれなかった。聞こうにも、今はもう皆寝てしまっているだろう。
 何より知っている人がいるかどうかも怪しかった。
 以前に変転をした者は百年以上も前に存在したきりだとあの老人達が言っていた。それを考慮すると、戻り方など知っている人物はいないということになる。
 その結果朔は一人で睡眠を削って奮闘するしかなかった。
 精神を集中してみたり、逆に何も考えないよう無心になってみたり。終いには角を押し込んでみようと試みたりと原始的な方法を実行した。
 だがそれでも元には戻れず、外からは鳥の鳴き声が聞こえてきたため諦めて眠ったのだ。
「でも、朝起きたら戻っていたのよ」
 何とも納得いかない気分で朔は華に説明した。
 華は、角を押し込んでみたときの話の辺りで変な顔をしたが、それ以外は至極真面目に聞いてくれる。
 そして一通り聞き終わると、やはり心配そうな表情で口を開いた。
「そう……。でもそれならやっぱり学校は休んだ方が良いんじゃないかしら? 力が不安定なら、ちょっとしたきっかけでまたいつ変転してしまうか分からないし。それに学校には里桃達も行くんでしょう?」
「うん……」
 その心配は朔も考えていた。
 力のことも勿論だが、里桃達が何か仕掛けてくるのではないかと。
 でも……。
「でも、変転してしまう程の事なんてそうそう無いだろうし。それに里桃達だって学校では何も仕掛けて来なかったし……」
「これからもそうとは限らないでしょう?」
 学校に行っても大丈夫だと主張しようとする朔に、華は優しい口調ではあるもののバッサリと言い切った。
 とはいえ朔も華の言い分の方が正しいことは十分承知している。
 それでも今日は何としても学校に行きたかった。
 最近、自分が月鬼の一族だと分かってからというもの非日常的なことばかりだ。
 今まではその非日常について行くのがやっとだったが、流石に限界だった。
 自分が人間でないことを理解して、里桃達から皆を守るためによく知りもしない力を使おうと訓練したり。
 一生懸命だったから頑張ってこれたのだ。
 だが、昨日ついに力は開花し、恐怖すら覚えるそれは圧倒的なものだった。
 あまりの突然の変化に朔は自分が何をしたいのか、自分がどんな存在なのか分からなくなっていた。
 自分はもっと、ちっぽけな存在だったはずだ。
 誰からも気に止めて貰えず、何の力も無いちっぽけな存在。
 以前はそれが情けなくて力を得ようとしていたけれど、今ではそれが懐かしくすら感じる。
 だから、学校に行きたいのだ。
 クラスメートにいないもののように扱われ、友達もいない学校生活。別段楽しみにしていることも無い。
 そんな学校だが、朔にとってはそれが日常だった。
 変転したことで感じ始めた不安や恐怖からも、一時でいいから離れていたかった。
 それでもそれは単なる自分の我が儘だ。言い出し辛くて押し黙ってしまう。
 そんな朔をじっと見ていた華は、軽く息を吐き出し微笑んだ。
「そんなに学校に行きたいの?」
 困り笑顔の様な……“仕方ないな”という表情。
「うん……」
 朔は華が承諾してくれたと感じ、申し訳ないと思いながらも正直に頷いた。
「分かったわ。でも、それなら護衛はいつもより多く付けるわよ? 文句は言わないわよね?」
 問答無用の口調と笑顔に、朔はたじろぎながら「う、うん」と答えることしか出来なかった。





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