少し開けた窓から木の葉が入り込んでくる。
真っ白な布団の上を小さく彩ったのは銀杏の黄色だった。
朔は目前に落ちた葉を拾い上げ、何とはなしに付け根を持ってくるくると回し始める。
里桃は、結局自分が言いたいことだけを言っていなくなってしまった。
本人が言っていた通り、何もせずに。
『お前は、俺の獲物だ』
吐息と共に囁かれた言葉。
思い出し、どくんと心臓が脈打った。
告げられた瞬間は獲物を狙う鷹の様な目に見つめられてただ息を飲んだ。
だが、冷静になって思い返してみると心臓が早鐘を打つ。とくん、とくん、と息苦しいほどに。
(あの人は、いつか私を殺すかも知れない……)
そんな予感がして少し身体が震えた。
ベッドに座っていた朔は、腰を折るように上半身を倒し体を縮み込ませる。
自分がどんなに強くなろうとも、里桃からは逃げられない様な感覚。
……でも、身体が震えるのは“それ”に対してではない様な気がした。
死ぬのは怖い。殺されるかもしれないことに恐怖も感じる。
だが、どうしてか心の奥底は波が立たない程に静かだった。
震えが恐怖からでないのなら、何故かは分からない。でも、心の奥が静かな理由はなんとなく分かる。
変わらないと、言ったからだ。
周りが全て変化していくのについて行けなかった朔。
その周りの中で、里桃は初めて自分は何も変わらないと言ってくれた。だからだ。
そうはっきりと認識すると、何故か体の震えも治まって行く。
色んなものが一夜で変わってしまった。
それでも、里桃が朔の“敵”だということは変わりない。
当たり前のことだというのに、朔は少しだけ安心していた。
里桃と戦う。その揺るぎないただ一つのものが、朔の心を支えている様な気さえした。
そんなことはないはずなのに。守りたいものも、変わっていないはずなのに。
それだけではないと否定する心もあったが、今の朔は深くは考えないようにしてただ息をついた。
ふぅ……。と、ゆっくり息を吐き出すと窓の外に人影が見えた。
さっきまではいなかった。気配も感じなかった。
色々と考えていた所為であっても、彼が近くにいたのなら自分は気付いていたはずだ。
それを考慮すると、彼は今さっきそこに来たのだろう。
窓際に隠れるように、こちらを見ていた。
目が合うと、そろりと室内を覗き込み誰もいないのを確認している。
そうしてから、少しだけ開けていた窓をカラカラと開けた。
「銀兎、さん?」
無表情の彼の口が何かを言う前に、朔が名を呼ぶ。驚きを隠しもしない顔で。
近くに来るまで気付けなかったことに驚いている訳ではなく、銀兎が今現れたこと自体に驚いていた。
学校にいる間は、特に何も無ければ敷地外から様子を見ているだけのはず。今敷地内の保健室に現れるとは思わなかった。
一瞬さっき里桃が来たからかと思ったが、それだったらもっと早くに来ているはずだ。
銀兎の意図が読み取れなくて、朔は不安げな顔で言葉を待った。
やけに整っている所為で無表情が更に冷たく見える銀兎。少し、怖くも感じる。
感情の読めない表情のまま、彼は口を開いた。
「今日はもう、ずっと保健室にいるつもりなのか?」
「え……?」
一瞬何を言われたのか、理解できなかった。
いや、勿論言葉自体は分かっていたが、意図が掴めない。
保健室にいるにしろ教室に戻るにしろ、銀兎がわざわざ気にすることなのだろうか?
確かに守る対象が分かりやすい場所にいれば彼等にとって都合は良いだろうが……。ただ、それだけのことをわざわざ聞きに来るとは思えなかった。
それに、朔は教室にいつ戻るかを全く考えていなかった。
「……」
銀兎がどういう答えを望んでいるのか計りかねて朔は押し黙ってしまった。銀兎も変わらぬ鉄面皮で答えを待っているので、何とも息苦しい空気が流れる。
その空気に初めに耐えられなくなったのは朔だった。
無言で圧力を掛けられている様な感覚に、取りあえず思ったままの言葉で答える。
「……取りあえず、もう少しここにいるつもりです。いつ教室に戻るかは決めてませんけど……」
尻すぼみになりながらも何とか返答すると、銀兎は小さく嘆息し口を開いた。
「もし、教室に戻る気がないのなら帰るという選択肢もある。元々お前の我が儘で学校に来たんだ。お前がもうここにいるつもりが無いのなら、帰った方がいい」
グサリと、真正面から刺すような言葉。
思いやりとか、オブラートに包むとかいうものは全くない。だが、その通りだった。
学校に来たのは自分の我が儘に他ならない。それに、平凡な日常を感じたくて来たのに実際はまるで正反対で目的も果たせない。
これ以上学校にいても仕方ない。帰った方がいいと言うのも納得だ。
「そう、ですね……」
責めているようにも聞こえる言葉に、朔はもう銀兎の目を見て話せなかった。
うつむき、ただ同意する。
「……はい、帰ります」
「分かった」
無感情に答えた銀兎は、「月人に荷物を持って来るように伝えてくる」とだけ言い残して去って行ってしまう。
そうして朔は、どうしても来たかったはずの学校を昼にもならぬうちに早退することになった。